宇宙全史における実存について

先日、「恥を忍んで」書いたところ、本当に恥ずかしい投稿になりましたので、もういちどきちんと実存に関するこれまでの御教示を読み返し、勉強しようと思います

ついでながら、ここに掲載しようと思いますので、是非一度お読み下さい。
何かご質問ご意見がございましたら、質問のところからお送り下さい。
 
 
一回目は、壮大な叙事詩「宇宙全史1」における実存のご説明です。
 
「そこに書かれる物語にある「永遠」を読み解かねばなりません。本当の詩には必ず「永遠」が潜んでいます。言葉を綾なすことで、永遠を 表現することも可能なのです。」と2016/9/26 No.3039で御教示いただいています。
いい文章だなと憧れて、私も実存を言葉で表現できないかと思ったのが今回の間違いの始まりでした。
 
「魂」の章で、「実はこの「実存」の探求が「宇宙全史」という本のテーマです」と明言されておられます。
 
虚空蔵55様がBBSでこの方向の探究に関わる御教示をされるときは、ひときわものすごい愛を感じますので、本当にこの言葉通りなのだとひしひしと感じます。
 
 
 「ここでお話している「私」は自我(エゴ)の私ではありません。ニサルガダッタの提唱されている「私は在る」という意識感覚(根源的なアイデンティティ)というのが最も正確な言い方だと思います。この実存にかかわる部分は直接ニサルガダッタの日本で出ている唯一の本「私は在る」をお読みいただくか、この本の「宇宙」の章の「実存」の項をご覧ください。お勧めはニサルガダッタの本の方です。」
 
ニサルガダッタの本は二冊邦訳されており、本日確かめると、新しい方が、kindle unlimitedで今0円になっていますので、それが使える方はぜひダウンロードして下さい。
 
 「魂(体)は実存があってこそ意識を持ち認識が可能になるのです。つまり実存が私たちの存在のすべての在り様に焦点を当てることにより、命を吹き込み存在を現すのです。人間という存在は人間界・魂魄界・幽界・霊界......と延々と果ては究極の実存界まで切れずにつながっている存在でもあります。その段階のどこに気づいているかということが、今のあなたの居場所になっています。現在は人間という存在に気づいている段階ということでしょうか 。ここでは「私」「意志」「気づき」という単語を使ってきましたが、どれも同じものの側面を指し示す言葉です。実存はそれ自体では顕現しません。その原初の顕現が「私」であり「意志」「気づき」でもあるのです。それこそが私たちを私たちたらしめている根源だといってもいいと思います。
しかし 本当は魂といわれるものは自分の各段階における体であり、そこに命を吹き込む大元は「実存」であるということを知りました。それではその肝心の「実存」とは一体何なのでしょうか。この世界(宇宙)では疑問や謎を突き詰めていきますと、究極的には必ず「実存」に至ります。しかしここではもう少し「魂」について深く掘り下げていきます。
私たちは実存という存在により命をもらっています。すると私たちの上に存在する魂魄体、幽体、霊体 ......等は私たちとはまったく関係がないのでしょうか。そうでもないのです。実存は私たち肉体にどうやって作用するのかと申しますと、直接作用するということではなく上から順番に「霊体」「幽体」「魂魄体」と作用しながら下がってきて「肉体」に作用するの です。
ひとつ上位の体(魂)が私たちに「意志」を吹き込むのですが、そのときダイレクトに「実存」の生命を流し込むというのではなく、上から順番に「実存」の意志が流れてくる間にある霊体(魂)のクセや習慣、傾向性を反映していきます。」
 
「この元ダマが受けた実存の反映を、順に下位次元に降ろして行っているのです。 この場合元ダマは実存の反映を一本の線で受け入れています。その線は言うならば「祈り」や「憧憬」という感じのものなのです。 次元の元ダマからしますと、そのずっと先にある「実存」は自らの故郷であり、母であり父でもあり、憧れの 理想郷でもあるのです 。ですからそこから降りてくる「線」に対しての思いは究極の「愛」というものかもしれません。
その体を上から順番に通って究極の存在であるところの「実存」が肉体に反映しているのが、今の私たちという存在です。
先ほど私は「実存」が上から順番に「神体」「霊体」「幽体」を通して「肉体」に働きかけていると申し上げました。そしてこの「実存」により単なる体である魂に命が入り、 魂が意識を持つのです。ならば魂の目指すべき基準とは「実存」そのものではないでしょうか。自分の究極の本体であるところの「実存」を私たちはまったく知らないまま、意識しないまま自分というものを「魂」と勘違いしています。」
 
「私たちの魂である肉体はこの地上界において進化のための学びを模索中です。そしてその進化の目指すところは「神聖」なるものでした。それはある意味「元なる自分」への回帰でもあります。「元なる自分」とは「実存」のことです。体であるところの魂はその「実存」という「私」を顕現する場です。場所であり顕現する道具でもあり、現れそのものであもります。 そうしますとその価値は何を持って決められているのでしょうか。すでに答えは出ていますが魂(体)は、自分であるところの「実存」を現すということが基準になるのです。しかし実存は善でも悪でも表現できるものではないようです。また大きさや重さ、広さや高低でも表すことができません。」
 
「もっと突き詰めますと「言葉では表せない存在」なのです。なぜなら言葉とは二元性の表現だからです。 これは少し難しいのですが、認識の表現が言葉です。 そして認識そのものが二元性の原理に基づいて起動するものなのです 自分があって認識すべき対象物があるという状況において初めて認識が成り立つのです そうすると「実存」をどのように表現することができるのでしょうか。結論から申しますとそれはできないのです。「実存」そのものを表す言葉はありません 。それを指し示す言葉もないのです。しかしニサルガダッタはうまい表現方法を教えてくれました。「それ(実存)は否定的表現をもって間接的に限定することができる」というものです。」
 
「たとえば「実存」は善でも悪でもない。「実存」は暖かいということでもなく、寒いということでもない。「実存」はあるということもなく、ないということもない。「実存」はすべてでもありすべてでもない。こんな感じで否定形の文章ならば実存の在り様を特定できるのです もちろん実際には特定はしていないのですが 。しかし今のところ「実存」そのものを指し示し、解明することはできません。それはこれまでのどんな聖賢、マスターであっても言語で解説することは「不可能」と言わしめた存在でもあります。それが私たちの本体なのです。」
 
「実はこの「 実存」の探求が「宇宙全史」という本のテーマです。たとえその解明が不可能であっても 、で きる限り その存在の 間近まで迫りたいと思っていました。」
 
「ところが 2008年に入りまして突然謎の存在から「実存の解明は可能です」という天恵が降りてきました。確認しましたがそれは科学的に解明できるもの だということでした 。「私にそれが出来るのでしょうか」という問いに、「可能性はある」というお答えをいただきました。皆様は私がこの情報を聞いたときどれほどうれしかったかお分かりになるでしょうか。これまでどんなマスター達もなし得なかった「実存」の解明の可能性があるということは、人類にとっては最高の福音なのです。」
 
「今回の第一冊目の「 宇宙全史」は、収録が大混乱の内に締め切りを迎えてしまいました。地球の秘密をどこまでも妥協なしに深く深く突き詰めていくと、とんでもないシステムが人類をがんじがらめにしていました。その機構から抜け出ない限り人類に救済の道はなかったのです。しかも人類はあと6年で史上始まって以来の大関門を迎えます。その時までに何とかしないと人類に未来はありません。そこで私は興味本位の探求をいったんあきらめ、人類を自分たちの自由に操る勢力と対峙することにしました。「実存」の探求はこの卷では導入部だけにとどめておきます。メインは地球を自我自欲のままに翻弄する存在を明らかにし、人類に目覚めてもらうよう働きかけることです 。どんなに狡猾なシステムを明らかにしても 、人類がそこに気づきそこから抜け出ないことには何も変わらないからです。すべては人類の手に、人類の気づきにかかっています」
 
 
この謎の存在はおそらく月読之大神で、このとんでもない、本来御言葉をいただくことも考えられないような存在ですが、虚空蔵55様とみわ様の翻訳では、なのよ、だわねを含む現代語り口で、我々下々の人間の程度の低い悩みごとに対し、とても人間業ではない快刀乱麻の御回答を下ろしていただいており、それだけでとても驚きます。いつもそれを味読させていただいておりますが、何度読んでも、どこまで理解できているのかおぼつかない深い内容で、新しい気づきが生じます。いつか「治療者のための月読之大神語録」を作れたらと思っています。

 前回の宇宙全史1のTEXTで、「実存はそれ自体では顕現しません。その原初の顕現が「私」であり「意志」「気づき」でもあるのです」とあります。

 ここでの「私」は、「私は在る」という意識感覚(根源的なアイデンティティ)とされています。
 
 
 瞑想は、エゴである「私」の部分を落として、この根源的なアイデンティティを際立たせることを目的としています。瞑想における世界平和の祈りをはじめとした祈りの効果もこれと結びついています。またそれによってエネルギーを貯めることがそれに向かうためには必須です。
 
 
 実存は「意志」であり、「気づき」であるということですが、今回は、この「意志」と「気づき」について、その後の御説明を含めて検討します。
 
 
2020/1/7 No.424の宏史様への御回答、
 
「宇宙全史における「意識」の定義です。
①「意識」とはこの現れの宇宙における根源的なエネルギーである。
②「意識」は真我から最初に染み出たもので、その出た瞬間に二元性を発現する。
③ オーム宇宙における原初の二元性は、意識が陰陽に分かれた時に発現したとする。
④ 陰陽に分かれた意識(エネルギー)は、確かに二元性を構築し続けるが、それが陰であれ陽であれ意識自体はあくまでも二元性の範疇にはないともいえる。
⑤ 原初のオーム宇宙における陰陽の配分は、若干陰が勝っていた」
 
「No.3207のワンオーワン様への御回答、
 
「「意識」の定義は(中略)宇宙に遍満するエネルギーであり、全ての源である」
「それを愛と表現しても間違いではない」
「意識自体に二元性はなく、陰陽に分けたために二元性が発現している」
「その意識が二元性の中で目的を持ち、方向性を示すとき、それを意図と呼ぶ」
 
「「実存」とは「真我」と「生きる世界」の境界線上にある境涯。「実存」から「意識」がほとばしり、「意識」から「意志」が生まれている」
「至高なるもの(真我)から意識というエネルギーが出て来る。そしてそこ(意識)から意志が発現している」
「「供給体」というこの宇宙に供給されるエネルギーはすべて「真我」から来ている。それはまず「意志」として顕現して来る」
 
「ニサルガはこの発言(「あなたはすべてに遍在する、永遠で無限の創造的気づき-意識なのだ。」)の段階ではまだ真我には至っていませんでした。彼のいうところの「実存」は真我と「生きる世界」との境界線上にある境涯でした。」
「ニサルガは「意識」を「永遠で無限の創造的気づき」としている」
「ニサルガの概念自体がよく整理されていない。「意識」は二元性を孕んでいる」
 
 
以上の御教示を整理しますと、
①真我から意識というエネルギーが出て来るその発生の瞬間では、意識自体には二元性がない。
②オーム宇宙における原初の二元性は、意識が陰陽に分かれた時に発現した。
③しかし陰陽に分かれた意識は、確かに二元性を構築し続けるが、それが陰であれ陽であれ意識自体はあくまでも二元性の範疇にはない。
④その意識が二元性の中で目的を持ち、方向性を示すとき、意識から意志が発現する。
 
「ニサルガは「意識」を「永遠で無限の創造的気づき」としている」「ニサルガの概念自体がよく整理されていない。「意識」は二元性を孕んでいる」のところですが、ニサルガダッタは「永遠で無限の創造的気づき」で、真我を語っており、それを二元性である意識と呼んでいることが誤解だということだと考えました。
 しかし、上にあげた宇宙全史1では、「実存」の原初の顕現が「私」であり、ここでの「私」は、「私は在る」という「意識感覚」(根源的なアイデンティティ)であるという説明に「意識」という言葉が使用されており、ここでの定義と少々齟齬が生じるかもしれませんが、これからは厳密に「意識」の定義をここで説明されているように使用しようと思います。
 
202020/2/4 No.3938の私の質問に対する御教示
「真我になるとは、我々末端の個である意識がこの大元の意識に遡行して、それが真我に帰還することなのでしょうか」
「はい
ただ「大元の意識」などという事は書いていないはずです。」
2020/5/21 No.3998の御教示
「先日いただいた「ただ「大元の意識」などという事は書いていないはずです」との御教示が、最初はよく理解できませんでした」
「ここはとても難しい内容になります。
どっぺんさんから頂いた文章は、
「真我になるとは、我々末端の個である意識がこの大元の意識に遡行して、それが真我に帰還することなのでしょうか」
多分この部分だと思います。
どっぺんさんが「大元の意識」をこの宇宙に遍満する「意識」というエネルギーとされていたのならそれは正解です(本当はちょっと違うのですが)。
私のその時の理解は、どっぺんさんが「真我」=「大元の意識」とされたように読み取れましたので「それは違う」と書いたのです。」
 
「私は在る」を顕現しようと修行している無明の身には、実存も真我も守護霊も集合魂も全く区別がつきません。
 ニサルガダッタの「実存」(真我と「生きる世界」との境界線上にある境涯)ではまだ二元性の世界だということでしょうか。
 真我に至ると溶けこんで消えていくと言われる意味は二元性のなくなる様を表しているのでしょうか。
 しばらく続けて考えていきたいと思います。