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質問7 ヤツメカワウソ様

こんにちは。今回お聞きしたいことは『人間には、本当に主体性があるのか?』ということです。

最近、サルトルについて調べているのですが、サルトルによれば『実存は本質に先立つ』そして『人間の本質はみずからつくるもの(主体性がある)』らしいです。

例えば、ペーパーナイフのような道具は紙を切るために作られたもので、『生産が本質に先立つ』といえます。人間が神の作った道具であるなら、人間にも同じことがいえます。

しかし、サルトルは無神論者なので、神が人間を作ったとは考えません。そのため、人間はまず先に実存し、不意に生まれ、あとから定義されるものだとしています。人間は最初は何者でもないが、自分の本質を自分で見つけることができる。それが主体性であるということでした。

この理論は素晴らしいのですが、どうしても気がかりなことがあるのです。それは、人間に関しても『生産が本質に先立つ』といえるのではないか?と思ったからです。人間(子ども)は男女の交わりから生まれますが、このとき、道具としての本質を親から与えられていた場合(決めつけられた場合)です。

そのような場合、その人間については主体性が成り立たないのではないかと思いました。つまり、自分が何者なのかを親からすでに定義されているので、自分の本質を自分で見つける余地というか、権利がないのではと……。あるいは、骨肉でできたロボットと言ってもいいでしょう。ロボットは道具として作られたものなので、「生産が本質に先立つ」「主体性を持たない」と言えます。

 

果たして、すべての人間に主体性があるというのは本当なのでしょうか?

ヤツメカワウソさん

いつもご質問をいただいてありがとうございます。

サルトルは我々の世代までは非常によく読まれており、私も人文書院のサルトル全集を持っていましたので、大変懐かしい名前をヤツメカワウソさんからお聞きして、思い出しました。嬉しいです。

実存主義と総称されますが、サルトルのそれは彼独特の哲学で、御指摘の通り、「実存が本質に先立つ」ものです。彼の思想の一つの背景にフッサールの現象学があり、これは私も30代の頃、精神病理学の分野で割と専門にしており、その筋の大家がドイツのマールブルクにおられたので、留学して師事したことがあります。ブランケンブルク教授という方で、みすず書房から「自明性の喪失」といいう著書の翻訳が出ています。

現在瞑想を行っているときも、自分の体験を現象学的なパラダイムでよく考えているなと気づくことがあり、それが一つの足枷にならないよう気をつけなければと思うと同時に、それにより立ち位置が分かるようなこともあると感じています。最近ハイデッガーを読み返していましたが、この人はかなり悟りに近いアプローチを含んだ哲学を展開しようとしていたのではないかと思います。

閑話休題。

ご質問の、人間の本質はみずからつくるもの(主体性がある)ということについてですが、この「みずから」という言葉で指しているものをどう考えるかで答えが変わると思います。以下の御教示をお読み下さい。

 

No.1150

「ところで漠然とした疑問ですが、子供はエゴはどうなっているのでしょうか?

私はすでに出来上がっってしまたのでなんともしがたいですが、何か子育てのヒントなどありましたらまた知りたいと思いました。

 

2010・6・23

石子様

 

子供は生まれた時から環境(社会)に適応するためにエゴを育成していきます。

主にその担い手は母親であったり家族・親戚・近所の人たちですが、ある一定の時期に来ますと、育ってきたエゴがひとつの段階をクリアします。

 

それが「自我の目覚め」といわれている少年期から青年期への移行期です(早い人は幼児期にもそういうことがありますが)。

この時人は「自分は一体何者か」「何のために生きているのか」「私はどうしてここにいるのか」などといういわばちょっと哲学的な思考回路を持つようになります(持たない人もいますが)。

それはある意味「自分というものをある程度客観的に見ることができるようになった」「社会と自分というハッキリとした分離感覚がそなわった」と申し上げてもいいかと思います。

そこまでどのようにしてエゴが育成されたかがその人のそれからの人生の運命を決定づけます。

ですから幼少時のエゴの育成は非常に大事なものなのです。

 

しかしここが人間の不可思議なところなのですが、人は生きていく(社会に適応する)ためにエゴを形成し、やがて(段階をあげて生きていくために)エゴを落とさなければならないのです。

それが「赤ん坊のようにエゴのない無垢な姿」と「エゴのない聖人」との差なのです。

共にエゴがないというところは同じなのですが、一度エゴを獲得し、それを手放し得た経験を持つものと、いまだその経験を持たないものとの差なのです。

そしてその「差」こそが「学び」でもあるのです。

 

さて石子様はお子様をお持ちのようですが、子育てにおいて最も大切なことは、

 

①親はこどものエゴを心して育成しなけらばならない。

 

②エゴを育成するためには、子供には「愛されている」という感覚が必要。

(自分はここで生きていていいんだという土俵がないとエゴは育成されません)

 

③親は「愛する」ということと「しつけ」の両立を心しなくてはならない。

 (その子が人間としての基本的な生き方を学べるような教育・それがしつけですが、それが出来るかどうか・・・それは根本に「愛」がないと出来ないことなのですが。可愛い、可愛いという「情」だけで育ててしまうと、ゆがんだ幼いエゴが形成されてしまいます。

 

すでに書きましたように人はやがてある境涯に至ると、エゴという(これまである程度の役には立っていたのですが)厄介な殻を脱ぎ捨て覚醒という新しい次元に上昇します。

それはまるでせみが抜け殻を木の幹に残し、脱皮して人知れず森の中に飛び立つようなものです。

そしてその抜け殻はせみが土中で何年も生きてきた時に彼を保護してくれていたものでもありました。

しかし夏の真っ青な空と白い雲、そして彼を呼ぶ仲間のせみ時雨が彼を新しい境涯にいざなうのです。

 

子育ては大変ですがお祈りと共にあるとき、そこには多くの神霊の加護が見えます。

子供をちゃんとした大人に育て上げることほどの聖業が他にあるでしょうか」

 

No.1904

「今の人類のほとんど(86%の人たち)の持つ欠陥のほぼ100%は「感謝がない」ということにあります。

 

そのエゴの傲慢さは、

 

「本当に神がいるのなら私を救ってみろ」

 

「神ならば世界中の不幸を何とかしてみろ」

 

というものです。

その思いに、その思いの奥底に、「自分の責任を放棄している」よって「自己の主体性を放棄してしまっている」という思い込みが潜在しています。

そのためその人の人生はその人の思い通りには行かず、すべてが周りの都合で動かされてしまいます。

それゆえ余計に、加速度的に、しかも取り返しがつかなく自分の運命が周囲によって翻弄されるようになっています。

 

それが人類86%の人たちの有り様なのです。

 

 

誰でも「勘違い」「間違い」「思い込み」「無関心」という迷妄は持つことがあるのです。

しかしそれに気づいたとき、あるいは気付かされたとき、その時に「怒り」や「拒否」ではなく「感謝」の気持ちを持つことが出来たなら、あなたはそれでその時クリアできたのです。

(もちろん魂の奥底でのクリアですので、これからそれをどうやって実際の生活に反映させていくかは、現実世界のあなたの問題です)

 

頑張ってください

 

そして世界平和の祈りが、あなたの力になりますように」

 

No.932

「一般的に「感謝」とは、ある一定の対象に対して自らの気持ちを表明するものだ

と考えられていますが、それは現象界、肉体界サイドから見たごく表面的なこと

でして、本当は「自分に神々(あるいは上位の存在)の加護を受け取る許可を出

すこと」なのです。

つまり私たちはいつも神様に感謝の祈りをしているように思っていますが、実際

は神々からの応援が来ることを、自分に対して「許可」すること、表明すること

をしているのです。

 

もう少し分かりやすくいいますと「感謝することで神々の力を得ることができる」

・・・しかしそれは神々の問題ではなく(神々は決して感謝がないと力を与えな

いよとはおっしゃっていません・逆にいつでもどこでもそのお力を注いで頂いて

いるのですが)、私たちがその神々の加護を受け取ることができるかどうかとい

うことなのです。

それを受け取るには、自分自身に「許可」を出す(あるいは与える)ことが必要

なのです。

 

私たちは何事も「自分が」「自分で」「自分だから」と、エゴ中心で成し遂げよ

うとしています。

それが生まれた時からの教え込まれた習い性となってしまっているのです。

だから生きるという基準を深い意識のもとで、そのエゴの基準に従っているため

に私たちはわざわざ「感謝」というキーワードを使って許可を出さないといけな

い羽目に陥ってしまっているのです。

 

エゴの強い方はよくお分かりだと思いますが、それが強ければ強いほど「感謝」

という行為がお出来になりません。

それがある意味覚醒への「ストッパー」でもあり「ハードル」でもあり「ブロッ

ク」にもなっているのです。

つまり「エゴの強い方は覚醒しにくい」という現実的な理由がここにあるのです。」

 

No.2051私の投稿

「どっぺん様

 

●①39p「潜在意識やそのもっと深いところでは、人からエネルギーをとるという形を好むという傾向」自体が既に問題のある在り方で、そういう形の搾取行動を取ることは、それぞれの様々な出自と過去世に規定されたものであり、我々自身の責任であることは分るつもりです。

そのエネルギーのやりとりについてですが、何か、昇華といいますか、ポジティブなあり方というものがあり得るでしょうか。例えば、他の人をがっかりさせたり、不安にさせるのではなく、気持を立直し、前向きになるように働きかけることなどは、双方のエネルギーを増やすことになると考えていいでしょうか。

 

○究極の立場からしますと、そういうエネルギーのやり取りは存在しません。

例えばドン・ファンの完全なる戦士の生き方ですと、そこにあるのは「公平な観照者」という有り様しかありません。

これは難しいので、私もだんだん触れなくなくなっているのですが‥本当に覚醒した人は「傍観者」という立場からしか世界を見ません。

しかし五井先生は一歩踏み込んで「公平な観照者」としての立場に踏むとどまっておられます。

ドン・ファンはこの世界を離れるまでは、やはり「公平な観照者」としてありました‥が、離脱してからはほぼその有り様からも自由になっています。

 

難しいでしょう?…何がいいたいのかといいますと、結界がある限り、人にエゴがある限り、あなたの望むようなエネルギーのやり取りは不可能といえます。

 

 

●②40p、Fさんのお母さんのところで、「気にさせた人のところにそのモチベーションが行ってしまうという仕組み」とありますが、これは、地上の人間全員にあてはまる普遍的な法則のようなものなのでしょうか。もしそうであれば、それは結界が張られる前から存在しているものであるのか、それとも、結界に伴い、向うの戦略で持込まれたトラップのようなものであるのか教えて下さい。

もし、もともとの法則であるのなら、人間同士の関係でのエネルギーのそういったやりとりにどういうポジティブな意味があるのかに関してもご教示いただければありがたいです。進化とか発展ということを目指す上で役に立つのでしょうか。

 

○これも上記のお答えと同じです。

そういうシステムは元々人の感情や思考に伴うものですが、そこにエゴが存在しますと、エネルギーの流れが一方的になるという性質を持っています。

またそこに意図的な結界があると、より強力にその流れを操作できるという事です。

 

 

●③41p 「基本的に心の配分が偏っているといいますか、何に染まっているかということがその傾向性を決定的にしていきます。例えばこの世の価値観とか、ルールとか、規則とか、こうあるべきという思い込みに染まっている人たち」「それが激しい人たち、それ以外は認めないという人たちがこういう傾向が強い」と教えていただいていますが、それは、思い込みから自由になる、アナーキーでなく、他を束縛せず、自分も束縛しないような自由を確立していくことが大切ということでしょうか。それは人生の中で、祈りを通して気づいていくことが可能なのでしょうか。

 

○その通りです。

エゴを直視することが出来る方は、それだけで何もしなくていいのですが、どうもこの「エゴを理解する」ということが中々難しい方たちには、「祈り」しかそこからの脱出法はありません…しかしこれがまた大矛盾なのですが、「エゴの強い方」「エゴが何だかわからない方」「自分がエゴだと理解できない方」に限って、「祈り」の効力が信じられないという現象になっています(本当は矛盾でもなんでもないのですが‥)。

 

 

●④気づきを得るために、エネルギーを搾取する、されるという他の例を、さらに御教示いただきますようお願い申上げます。

特に、「子供の頃に刷り込まれたネガティブな言葉は、潜在意識に刷り込まれ、その後大きくなって表面意識では忘れてしまっていても、その人の人生を決定的にしている」「子供の頃にお母さんや肉親に刷り込まれた言葉は、その子が素直な子であればある程深く潜在意識に染み入り、その影響力は大きくなっても自動的に継続していきます。それもたった一度のインプットが 自動的に刷り込まれ、解除がない限りその子が死ぬまでそのまま」ということですが、否定され、自分がそうだと思い込んでいることに深く気づいて、それを抜け出られる例を教えていただければ幸甚です。

私自身、戦時中に思春期前を過した両親、アルコール依存の父親とそれに怒りまくる母親の夫婦喧嘩の連続の日々を幼少時に体験し、様々に神経症的な性格、特徴を呈し、人の親切さが嬉しいくせに不信感を持ち、家内などが素直で人に優しい側面があるのを見て、抵抗感を感じて、屈折するような輩でありますので、自信がないので褒められるとすぐに木に登り、何か注意されたりするとすぐにがっくり来たりしているていたらくで、何がインプットされているのか整理がつかない思いでいっぱいです。

散漫な文章で申訳ありません。よろしくお願い申上げます。

 

○あなたの場合は「自分の存在を、安心してそこで生きていけるという位置に置きたかった」ということがあります。

つまり「愛されたかった」ということです。

具体的にいいますと、へこませるとか悲しませるとか怒らせるとかという事は、エネルギーを吸い取りやすくする装置なのです。

その装置であなたのご両親は、あなたからエネルギーをとるというループを造っています。

基本的にいじめるというのは、そこにエネルギーがあるから、とるものがあるからそうするわけです。

 

ここで気づけばそのエネルギーは戻ってくるのですが、それでは具体的にどう気づけばいいのでしょうか?

この命題は翡翠さんにも当てはまるのですが(本当は非公開情報の彼女のご両親の件(くだり)で書こうと思っていましたが)…う~ん、やはりまとめてそちらで書くことにします。

 

もうしばらくお待ちください

 

 

虚空蔵55」

 

「愛されたかった」というエゴの解消は、まだまだ難しいですね。

 

具体的な回答でなくて申し訳ありませんが、まずこれをお読みになった上でもう一度御意見をお願い致します。

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コメント: 2
  • #1

    ヤツメカワウソ (土曜日, 13 4月 2019 14:15)

    ありがとうございます。

    うーん……難しいですね。一つ言えるのは、海さんのヒーリングで大体解決したつもりでしたが、まだ問題があるということですね。

    とりあえず、感謝と主体性について考えてみます。このテーマについては上手く理解できていないのですが、『自分中心』と『主体性を持つ』はまったく違う概念みたいですね。また、与えられたものに感謝をせず、与えられて当然だと考えるのはある意味他人任せなので、主体性を欠いている……のかな?うーん、やっぱりよく分かっていないです。

    ところで、感謝について、自分はネガティブなイメージを持っています。どうしても給食が食えないときに『作ってくれた人に感謝をして、食べなさい!』と教師から言われたり、生んでもらったことを感謝しろと家族に言われたり……

    そういう感謝の強制をされたので、教師や親、またはそれに近い相手に対して、『恩着せがましい』と感じたり、『無理やり与えられたものを受け取りたくない』と思ってしまうんですよね。

    ところで、このブログに書かなかったかもしれないので一応書いておきますと、自分は父親から虐待を受けたことがあり、親子関係や支配行為について強い執着を持っています(良くない傾向ですが)。つまり、『無理やり与えられたもの』といえば、特に暴力や不安、精神疾患などのことです。

    もう少しじっくり考えて、また書き込みます。

  • #2

    ヤツメカワウソ (土曜日, 13 4月 2019 19:01)

    もしかして、親が育てたエゴ(つくった本質)はあくまで思い込みだから、自分自身ではない、ということでしょうか?なるほど、それなら分かるかも。

    主体性とエゴの違いや、感謝と主体性の関係についても考えてみます。主体性というと『自分が』『自分で』『自分だから』というキーワードを連想しますが、実際には全然違うみたいですね。